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第十二編 第二世紀へ向って

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第三章 創立百周年記念事業の実現

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一 創立百周年記念事業の進捗

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 創立百周年記念事業は本編第一章第二節で述べたように、計画委員会の手になる最終報告「創立百周年記念事業計画に関する報告書」の線に沿って、昭和五十四年十月十五日、創立百周年記念事業計画として評議員会において議決された。そして百周年に当る五十七年の二月に設置された百周年総合計画審議会に対し、清水司総長は「現キャンパスにおける教育研究条件の整備充実計画を考慮した百周年記念事業の内容」を諮問し、審議会は「現キャンパス総合整備計画と百周年記念事業計画について」、「現キャンパスの問題点」、「百周年記念事業基本計画の策定と理念について」等の議題の下に審議を進めていた。

 この間に総長の交替があった。清水総長の一期目の任期は五十七年十一月に満了となるが、二期目の候補者となる意志はないこと、つまり「次期総長候補者に推薦されても受けない」(『早稲田大学広報』昭和五十七年六月二十九日号)と早々に表明していた。そしてこの年は創立百周年の諸行事が重なることに配慮し、総長決定選挙日を七月に早めて総長選挙の日程が組まれた。六月八日に公示された総長候補者選挙は同月十五日と十六日に亘って投票が行われた結果、法学部教授西原春夫と文学部教授本明寛が総長候補者に選ばれた。七月二十二日に実施された決定選挙では、有効投票九百七十六票のうち、西原が五百五十五票を、本明が四百二十一票を獲得し、過半数四百九十六票を上回った西原が学苑第十二代総長に選出された。清水総長は創立百周年記念式典を花道に十一月四日を以て勇退し、翌五日に就任した西原総長が以後記念事業実現の責任を負うことになった。

 昭和五十八年一月十七日、西原総長から百周年総合計画審議会に対し次の諮問があった。「記念事業の推進については当面下記のような基本方針でのぞみたいと考えているので、この点に関する百周年総合計画審議会の意見を承りたい。一、中央図書館を含む総合学術情報センターの内容について早急に具体化する。二、『基本計画』の基本的な考え方に沿った何らかの教育・研究施設を新キャンパスに設置する。その内容、規模、開設時期等については、なお引き続き検討する。」翌二月の審議会で、西原総長はこの諮問の具体的内容を補足説明した。審議の結果、三月十八日に「第一項および第二項を現キャンパスの総合充実整備との関連において了承します。なお、右の二項の取り扱いについては今後とも当審議会の意見を尊重されたい」との答申が採択された。

 六月十五日、西原総長は百周年記念事業第一次実施計画として、「一、国際交流センター・共同利用研究施設の機能の一部を含む総合学術情報センター(中央図書館および情報処理施設)約六十億円。二、スポーツ科学系部門を含む総合人間科学系学部(仮称)、および総合人間科学研究センター(仮称)、ならびに運動施設約六十億円」(『早稲田大学広報』昭和五十八年十一月十四日号)の設置・建設を諮問した。ここに「第一次」を冠する所以は、募金の達成状況に連動して計画が変更されることになるからである。総長自身の説明によれば、「あくまでも第一次的な実施計画でありまして、寄附金がさらに集まりしだい拡張して行くことを留保し、かつ予定に入れたところの実施計画、つまり拡張可能性を含んだところの実施計画である」(同前)という前提で、総額百二十億円の規模の実施計画が立てられたのである。従って、このプランは記念事業のすべてをカヴァーするものとして提案されたものではないことに留意する必要があるが、それにしてもこれを五十四年十月に評議員会で議決された「基本計画」(九八二―九八三頁参照)と比較するならば、顕著な異同が幾つかある。先の「基本計画」は、第一に「総合学術情報センターの設置」、第二に「新キャンパスと新学部等の設置」、第三に「国際交流センター・早稲田大学会館および大学本部の建設」を骨子としたが、このたびの実施計画においては、第三の「国際交流センター」建設構想が第一の「総合学術情報センター」設置構想の中に吸収されたほか、「早稲田大学会館」と「大学本部」の建設が見送られた。また、第二の「新学部等」についても、「人間科学系の学部」、「体育・スポーツ科学系の学部」および「総合医科学研究センター」という二学部一研究センター構想が、「スポーツ科学系部門を含む総合人間科学系学部」と「総合人間科学研究センター」から成る一学部一研究センター構想に抑えられたのである。

 審議会は右の各項目ごとに小委員会を設置して検討を進め、諮問の第一項に関しては五十九年二月に、第二項については七月に答申書を提出した。十一月の評議員会は第一次実施計画を決定した。そして六十年十二月九日に開かれた第二十五回の審議会において、総長報告による第一議題「総合学術情報センターの施設計画について」、第二議題「人間総合研究センターの設立構想について」および「予算額の一部修正について」の三点が了承され、百周年総合計画審議会は三年八ヵ月に及ぶ審議を終了させた。

 次節以下では第一次実施計画が実現する過程を詳述する。創立百周年を過ぎて十有余年、学苑は大きな変貌を経験しつつあるが、百周年記念事業とは直接関係しないさまざまな変化については、本史を継ぐ後人の史筆にこれを委ねることにする。

二 人間科学部の開設

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 総長諮問の第二項について五十九年七月に提出された答申によると、新学部「人間総合科学部(仮称)」は人間基礎科学系の発達人間科学科と人間応用科学系の福祉健康科学科・スポーツ科学科から成り、二千人の学生総定員を擁するものとされ、授与される学士号は理学士・教養学士・体育学士となった。また新研究センターの名称は「人間総合研究センター」とし、期間を定めたプロジェクト研究を行うものとされた。更に、この研究センターと有機的に関連づけられた大学院研究科の設置も盛り込まれた。

 九月十四日には「百周年総合計画審議会の答申を尊重して所沢キャンパスの実施計画案の策定について審議することを目的とする所沢キャンパス実施計画委員会」が設置され、十一月九日には「新学部の設立を目的とする新学部設立準備委員会」が設置された。評議員会は同月に百周年記念事業第一次実施計画を議決し、新キャンパスに関しては十五日、既に埼玉県により開発行為許可申請書が受理されている所沢校地において起工式が挙行された。

 翌六十年五月二十九日、評議員会は人間総合科学部の設立計画を議決するが、この議決による新学部の学科構成は、人間基礎科学系の人間基礎科学科と人間応用科学系の人間健康科学科・スポーツ科学科から成り、授与される学士号は社会学士に変っている。これらの変更は、新学部設立準備委員会における検討の結果行われたものである。小山宙丸常任理事の説明によると、「発達人間科学科というのが、やや不適当で、人間基礎科学科とした方が明確にな」り、また福祉健康科学科の「福祉」は「社会福祉」に限られる感じがするため、「心身の健康、人間の幸福を総合的、具体的に研究・教育しよう」との趣旨から人間健康科学科に変更された。学士号の社会学士への一本化は、一学部一学士号とする文部省の方針と、他大学の既存の人間科学部の授与する学士号がすべて社会学士で統一されている状況を勘案したものである。学部名はまだ仮称で、非常に幅の広い学部に総合という名称を付している他大学の例を参照すると、「第一次計画でのこの学部は狭い範囲であるので、まだ若干文部省との関連で検討を要する可能性がある」(『早稲田大学広報』昭和六十年十二月十七日号)とのことであった。

 七月三十一日、文部省に「人間総合科学部設置認可申請書」が提出され、十二月一日には人間総合科学部開設準備室が発足した。六十一年一月十六日に理事会が第一期建築工事計画を承認したのを承けて、二月二日に新キャンパス建築工事の地鎮祭が挙行された。なお、建築基準法に基づく建築確認申請が許可されたのは三月二十五日である。大学設置審議会による「人間総合科学部設置認可申請書」に対する第一次審査の結果、文部省は新学部の設置を「不可とせず」としつつも、「一、人間に関する諸対象領域を総合するとの趣旨に沿うよう、各学科の授業科目の編成等について、更に検討するとともに、学部名称についても検討を行うこと。二、各学科(特にスポーツ科学科)の学士号について、検討すること」との留意事項を学苑に通達した。五月二十九日、評議員会は人間総合科学部を人間科学部とする名称変更を議決した。これに伴ってカリキュラムにも修正が加えられ、あらためて「早稲田大学設置認可申請に係る一部変更認可申請書」および「人間科学部設置認可申請書」を六月三十日付で文部省に提出し、第二次審査の結果を待った。文部省から付せられた留意事項のうち学部名称と学士号につき、「一部変更認可申請書」の中で学苑は次のような対処の趣旨を述べた。

学部名称については、「人間総合科学部」を「人間科学部」に変更する。その理由は、第一に、本学部が目指している「人間総合科学」の学問領域を画定することは困難であり、また、学部名称について先例がないこと、第二に、本学部は、人間の存在、行動、発達を自然環境と社会環境との関連において学際的、総合的に研究教育することを目的としているが、この目的は、学部名称を「人間科学部」としても実質的に達成しうるものであること、による。……学士号については、検討の結果、各学科とも「社会学士」としたいという方針は変更しないこととした。ただし、近い将来、関係機関において学士号の基準を検討し、新たに「人間科学士」を設けて、本学部に適用されることを強く希望したい。

文部省はこれを了承し、十二月二十三日、人間科学部の設置を認可した。

第十六図 所沢キャンパス建物配置図(平成三年)

100 人間科学部校舎、人間総合研究センター施設

100―5 所沢スポーツホール

100―6 アクアアリーナ

 明けて六十二年二月二十六日に人間科学部初めての入学試験が実施され、八千三百五十三人の受験者がこれに挑んだ。四月一日、人間科学部は浅井邦二教授を初代学部長として正式に発足し、六百六十人の入学生を迎えて入学式が挙行された。四月十八日には陸上競技場開きが、五月十七日には所沢校地の第一期工事竣工式・落成式・開校式が挙行されている。

 竣工した新キャンパスの敷地は二二万九三三〇平方メートル、そこに延床面積二万九五〇九平方メートルの校舎が立ち、四百メートル・トラックの陸上競技場と公式野球場が各一面、テニス・コート八面、バスケットボール、バレーボール兼用球技場二面といった運動施設が配置されている。八階建の校舎一〇〇号館内部には一・二階に亘る七百人教室をはじめとする十三の教室、九演習室、五サークル室、七十四研究室のほか、数多くの実習・実験室、学生大食堂、四階の所沢図書館、視聴覚教室、映写室、コンピュータ機械・端末室、大小の会議室がある。併設された一〇〇―五号館と一〇〇―六号館は学部発足後に完成を見るのであるが、それぞれ所沢スポーツホール(平成二年四月十日竣工)、アクアアリーナ(平成三年十月二十八日竣工)と名づけられ、校舎・運動場施設とともに、狭山湖を南側に一望する丘陵地に既存の緑地と地形をそのまま利用する工夫を凝らした建築である。

 やや長文に亘るが、西原総長による開校式の式辞の中に新学部の抱負を窺おう。

科学技術は本来、人間の幸福を増進するためのものですから、二十一世紀の科学技術が人間をますます幸福にすることは疑いないであろう、そうであるからには早稲田大学も例えば理工系の教育研究機関をもってその自然科学の発展に寄与しなければならないことは言うまでもございません。しかし、翻って考えてみますと、科学技術あるいはその周辺にある物質文明が逆に人間を不幸にしたり、人間に災いをもたらす可能性もだんだん強くなって参りました。現在既にその徴候がかなり現れていると思われますが、これが二十一世紀にはますます大きくなることも予想されます。本来の主人である人間が、いわばその僕にしか過ぎない科学技術によって逆にコントロールされているという状況がだんだん出て来た、そこで二十一世紀において早稲田はいかにあるべきかを考えた場合に、本来の主人である人間にもっと着眼する必要があるのではないだろうか、こういうことに気付いたのでございます。そしてそのためのルートはやはり早稲田大学にとって可能な、しかも早稲田にふさわしいルートでなければなりません。さらには、早稲田大学には既に八つの学部がございます。それぞれが人間の尊厳を考え、物質文明からの人間の保護に邁進していることはいうまでもございませんが、しかし既存の学部体制では少し十分ではない部分があるのではないか。それは、現代の学問が恐らくはギリシャの昔からだんだんと発達をする過程で次第に細分化して参りました。

例えば、人間とか、あるいは人生のある一部分を非常に深く研究し追究し今まで解らなかった所が解るようになったという点では大変素晴らしいことではあるけれども、しかしこれが余り深く狭くなり過ぎるとその一つの学問では隣の分野さえ見えないという可能性もだんだんふえて来たのでございます。言うまでもなく人間は精神と肉体とからなる存在ですし、その精神も例えば知、情、意というようないろいろな異なる知能に分れているのでございます。しかし、本来人間はそういった精神と肉体とからなる全一体としての存在である。しかもそればかりではなく、胎児として発生してから死に至るまで生物的存在でありながら自然環境、社会環境とふれあいながら発達をしていく動的存在でもある人間を、今一度全一体として体系的、総合的に把握するという観点が必要になってきたのではないだろうか、そのためには既存の学部の研究教育体制では足りないのであって、新たなる研究教育機関を創る必要があるのではないか、こう考えた次第でございます。

またもう一つの問題としては、二十一世紀の社会はますます情報化が進み新たな情報通信手段が発達し、ますますストレスも多い社会になってくると思われますし、例えば交通機関などが発達すればするほど人間は歩かずにすむようになってくる、つまり二十一世紀はそれだけ不健康な要因がだんだん大きくなってくる社会ではないだろうか、そのように考えてみますと医学、つまり病気になってから診断し治療する医学の発達もさることながら、人間が病気にならないようにする科学というものがますます必要になってくるのではないであろうか。こう考えてみますとこれまで必ずしもはっきりしていなかった新たな学問分野が浮かんで参りました。例えばこれを健康科学と名づけることができるのではないか、そしてその人間の健康の保持・増進のためにはこれからますますスポーツの意義が重要になりスポーツ科学というような実践的な学問を展開する必要もますます大きくなってくるのではないであろうか。このような基本的な考えのもとに、学内の諸会議で十分な検討を積み重ねた上で発足を迎えたのがこの人間科学部であり、人間総合研究センターでございます。

(『早稲田学報』昭和六十二年六月発行 第九七三号 六―七頁)

 開校時の専任教員のうち、半数近くは文学部、教育学部、体育局など他学部の教員がこれに任じられ、あとは学外から新規に採用された。人間科学部が目指す教育の内容を窺うために、学生が四年生まで揃った平成二年度の学科配当を次に掲げておく。

第五十八表 人間科学部学科配当表(平成二年度)

一般教育科目(教養演習を必修とするほか、各系統より一科目以上選択必修)

外国語科目(外国語Aより六単位と、外国語Bより一ヵ国語八単位とを必修)

外国語A

第一学年

英語Ⅰイ(毎週二時間十四組)三枝幸夫、田中純蔵、小出二郎、前田豊、新保昇一

英語Ⅰロ(毎週二時間十四組)チャールズ・ゲイ、ロジャー・N・ジェフリース、ロバート・グレイ、ピーター・J・カスタグナロ、リーバイ、ピーター・ボラー

第二学年

英語Ⅱ(毎週二時間十四組)矢崎正夫、三枝幸夫、野中涼、前田豊、室岡博、沢村灌、小出二郎、小野正和

外国語B

第一学年

英語(会話)(毎週二時間五組)ピーター・ボラー、ピーター・J・カスタグナロ

独語Ⅰイ(毎週二時間五組)佐藤巌、岡田浩平、重原淳郎、神崎巌

独語Ⅰロ(毎週二時間五組)中村昌子、重原淳郎、神崎巌

仏語Ⅰイ(毎週二時間五組)野村圭介、野池恵子、堀田郷弘、角山元保

仏語Ⅰロ(毎週二時間五組)清水茂、野池恵子、堀田郷弘

第二学年

独語Ⅱイ(毎週二時間五組)佐藤巌、牧幸一、重原淳郎

独語Ⅱロ(毎週二時間五組)中村昌子、岡田浩平、重原淳郎、森祐子

仏語Ⅰイ(毎週二時間四組)野池恵子、清水茂、堀田郷弘、角山元保

仏語Ⅰロ(毎週二時間四組)フィリップ・ヴァネ、金沢ジャニック

基礎教育科目(五科目選択必修)

各学科共通科目

人間基礎科学科専門教育科目

人間健康科学科専門教育科目

スポーツ科学科専門教育科目

随意科目

 かくて平成三年三月、人間科学部は最初の卒業生五百十九人を世に送り出したのである。なお、教育学部教育学科体育学専修は人間科学部開設と同時に学生募集を停止した。

三 人間総合研究センターの設置

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 昭和五十四年の「基本計画」で謳われていた総合医科学研究センターの設置については、翌五十五年十月以降記念事業実行委員会の総合医科学研究センター専門委員会が検討を進めていた。同専門委員会に付託された検討事項は、総合医科学研究センターにおける研究のあり方、管理運営の方法・人的組織、施設計画であり、このセンターの施設規模は建坪千坪、所要資金は八億円、またセンターには専任研究員を置かないことを前提条件とするように求められていた。七回に亘る会議と、五十六年十月以降十回開催された懇談会では、新研究センターの名称問題を含む議論が展開され、意見が活発に交換された。

 五十七年十月、同専門委員会の加藤一郎委員は百周年総合計画審議会で検討内容を説明し、センターの名称について現時点では健康科学研究センターが好ましいと考え、センター設置の目的は「人間の心身の健康をメインテーマとする。たとえば、社会学・心理学・スポーツ工学・医学・工学そういった各分野からの多角的総合的なアプローチをする学際領域の研究と教育を行う」こととし、「体育・スポーツ科学系、人間科学系そして生態系という三つの柱が有機的に機能するセンターという考え方でまとめつつある」旨を述べた(『早稲田大学広報』昭和五十八年二月二十二日号)。

 五十八年六月の総長諮問では、一〇〇九頁で述べた如く新研究センターの名称が総合人間科学研究センター(仮称)となった。この諮問に対し五十九年七月に提出された百周年総合計画審議会の答申の中で、センターの名称は漸く人間総合研究センターに落着したのであった。この答申は新研究センターの目的を次のように述べている。

この研究センターは、人間の真価を総合的、多角的に探究し、人間の幸福と繁栄の在り方を追求することを目的とする。そのため、新学部のほか既存の各学部その他の教育研究機関などの研究者の学際的なプロジェクト研究によって人間の存在、行動、発達に関する基礎的問題を探究し、人間の福祉、健康および積極的な社会生活の確立に資する。

(同紙 昭和五十九年八月十日号)

これを承け六十年二月に開かれた所沢キャンパス実施計画委員会において、新研究センターのソフト面について検討するため、ワーキング・グループが設置された。八回に亘る検討の結果、「人間総合研究センターの設立構想に関する報告書」が草され、これが十一月二十七日、所沢キャンパス実施計画委員会の報告書としてまとめられた。

 百周年総合計画審議会は十二月九日にこの報告書を了承した。報告書はセンター構想の具体化に方向づけを与えるために、「研究活動計画」と「組織運営の大綱」を明らかにしている。先ず前者から見ると、当面の研究活動に与えられる総括テーマは「テクノ社会における人間発達」で、その趣旨は左の如くである。

本センターは、第一に、総合的・学際的・多角的な「人間」の研究を目的とし、第二に、プロジェクト研究という方法により研究を組織化し、第三に、新学部における研究・教育のバック・アップ機能をも担うものである。したがって、そこにおける研究テーマは「人間総合研究」たる実質を有するものでなければならない。そうした観点から研究対象について考えてみると、本センターが目指すところは、物質文明の急速に展開する時代において、人間がいかに生きるべきかを社会科学と自然科学との総合的・学際的な視点から問い直すことであろう。このことは、また、研究対象にそくしていえば、ポスト産業社会であるテクノ社会における人間のあり方を問うことを意味する。それゆえ、本センターの研究対象は、これを総括すれば、「テクノ社会における人間発達」ということになろう。 (同紙 昭和六十一年五月十二日号)

右の総括テーマの下に包括的な研究プロジェクト(一)「社会変動と人間発達」が設定され、五つの研究グループから成る研究プロジェクト(二)では個別テーマの追究が行われる。第一に、情報環境グループは「情報に関連する問題を総合的に研究しようとする」もので、当面のテーマを「一、生体における各種情報伝達機構の解明とその情報媒体への応用、二、人工知能の開発、三、最適な情報環境の設計」とする。第二に、労働環境グループは、「労働環境における人間にとっての諸問題を研究対象として、最終的には人間にとっての最適な労働環境の設計を目的とする。」第三に、教育環境グループは、「情報システム化の進行している現代社会における最適な教育環境の設計を教育工学、環境心理学、社会学、心理学などを援用して、多面的、学際的に展開しようとする。」第四に、体力開発グループは「家庭、地域、企業など錯綜した集団のなかで多面的な活動を強いられている人間が、……体力を開発・維持しうるために必要な最適な環境の設計とそのための訓練方法を開発すること……に学際的、多面的に取り組もうとする」もので、当面のテーマを「一、運動負荷時の身体機能の評価法の確立とその体力開発・訓練法への応用、二、ストレスの解放とスポーツ、レジャー、三、運動施設の最適設計」とする。第五に、ストレス・マネジメントグループは、「ストレス要因の分析、ストレスおよびストレス耐力の測定、ストレスからの回復とスポーツ、レジャーとの関連など広い学問領域にまたがる問題を医学、心理学、社会学、生理学などを援用して扱」い、「財団法人パブリックヘルス・リサーチセンターと共同プロジェクトを編成する」(同紙 同日号)。

 この最後に現れるパブリックヘルス・リサーチセンターについて、一言触れておくならば、同財団は昭和五十九年に厚生省認可の財団法人として設立され、六十年には特殊公益法人の指定を受けた。財団の諸事業が新学部および新研究センターの扱う領域ときわめて近いことから、学苑は六十年にこの財団と提携関係を結び、役員、事務局長等を送って財団の運営を援助することとした。そして六十二年、同財団は、厚木市森の里団地に森の里病院を開設するが、経営が思わしくなくなって病院施設売却のやむなきに至り、平成五年二月、学苑理事会はこの病院の敷地と建物の購入を決定するのである。

 さて、人間総合研究センターの「組織運営の大綱」につき、報告書は「本センターの適正かつ円滑な管理運営を行うため、管理委員会および研究プロジェクト組織運営委員会(仮称)をおく」とし、研究員に関しては、学苑専任教員が兼任し、専任の研究員は置かないこととした。研究経費は「主として、学外からの資金によることを目指す。たとえば、公的研究補助金の獲得に努力するのみならず、賛助会員制度を導入したり、委託研究を積極的に働きかけたりすることを予定」した。また、センターの本部に当る所長室・会議室・専用実験室は所沢校地校舎棟内に設けるほか、「本部構内周辺に分室(会議室など)を設け、全学的な研究センターとして機能しうる条件を整備する」ことにした(同紙 昭和六十一年五月十二日号)。

 右のような報告書のプランに沿って、六十一年四月一日に人間総合研究センター開設準備委員会が設置された。人間科学部が入学式を済ませた後の六十二年四月十五日、人間総合研究センターは法学部教授牛山積を初代所長として正式に発足した。同日示達された「人間総合研究センター規則」第二条は、センターの目的を、「人間・社会・自然の調和と秩序ある発展を目指し、人間の存在および行動に関する諸問題を人間発達の観点から総合的かつ科学的に探求し、もつて健康にして幸福な人間生活および積極的な社会生活の確立に資すること」と定めている。発足に際して配付されたパンフレット『早稲田大学所沢キャンパス/人間総合研究センター』に、西原総長は次の一文を寄せた。

現代社会の隅々に強い影響を与えている科学技術と物質文明は、二十一世紀にはさらに発展を遂げるでしょう。その結果、人間の生活がますます便利になることは疑いありません。しかし、それが逆に人間に災いをもたらし、人間を不幸にするおそれもまた、ますます強くなってきました。二十一世紀のひとつの大きな課題は、科学技術や物質文明から人間を守り、その威信を回復することにあると思います。早稲田大学が創立百周年を記念して開発した所沢キャンパスは、まさにそのような課題を追求しようとするものです。人間総合研究センターは、教育機関としての人間科学部と共存する研究機関であり、「人間が受胎から死に至る発達の過程で、自然環境、社会環境と接触するところで生まれる種々の解決困難な問題を分析し、解決のための指針を明らかにするプロジェクト研究の総体」と特徴づけております。関係者の皆様のご指導、ご鞭撻を心からお願い申し上げます。

人間総合研究センターにおける研究活動も、研究プロジェクト(一)に「流動化社会と生活の質」が加えられたほかはほぼ報告書のプランに沿って始動した。センターの施設は所沢キャンパス一〇〇号館に置かれたが、開設と同時に、本部キャンパス南門向い側の高田牧舎ビル二階にその分室が設けられた。

 なお、六十二年七月には、所沢キャンパスの自然環境を調査し、保護活動に当ることを主たる任務とする所沢キャンパス自然環境調査室が、六十三年四月には、校地埋蔵文化財調査室が設置されたことを付言しておかなければならない。後者は六十年四月に設置された所沢文化財調査室を発展的に継承したもので、所沢キャンパス敷地にあった複合遺跡の調査報告書『お伊勢山遺跡の調査』全五部を平成六年までに刊行している。大学院人間科学研究科が開設されたのは平成三年四月のことで、ここに総長諮問の第二項に関わる事業は完成した。

四 総合学術情報センターの開館

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 昭和五十八年六月十五日の総長諮問第一項に対し、百周年総合計画審議会は五十九年二月十五日に答申を提出した。その結語には、「『総合学術情報センター』とは、国際交流センター・共同利用研究施設の施設の一部を含む新中央図書館(学術情報システムを含む)と現キャンパス総合整備計画の一環として設けられる図書館分館よりなる体系的組織を指すものとし、記念事業として建設される施設(付帯設備・備品を含む)は、約六十億円の予算で実施するものとする。また、この施設は、本部構内に隣接した場所に設置されるべきである」(『早稲田大学広報』昭和五十九年四月十二日号)とある。そしてこの答申を承けて三月には、「百周年総合計画審議会の答申を尊重して総合学術情報センターの実施計画案の策定について審議することを目的とする総合学術情報センター実施計画委員会」が設置された。同委員会が理事会から付託された審議事項は、次の三点である。

一 総合学術情報センターのシステム、組織および運営などの計画案に関する事項

二 記念事業として建設する総合学術情報センターの施設計画案およびその実施に関する事項

三 前二号に定めるもののほか、総合学術情報センターに関し、理事会からとくに付託された事項

(同紙 昭和五十九年五月二日号)

以後六十二年五月まで、この委員会は十回に及ぶ審議を重ねた。なお、同委員会の設置に伴い、五十九年四月六日付で創立百周年記念事業実行委員会の各専門委員会は廃止された。

 実施計画委員会の議論の中から、五月には「新中央図書館の基本イメージ」という文書が、七月には「新中央図書館計画基本構想書」が産み出され、十月にはそれらが「総合学術情報センター基本計画書(案)」に結実し、委員会で承認された。この過程で、新中央図書館とは一応別個の組織と想定されていた国際交流センター・共同利用研究施設に関わる審議は、必ずしも新中央図書館の基本構想と轡を並べて進捗したわけではなかったようである。「基本計画書」の「序」はこの間の事情を次のように述べている。

早稲田大学は百周年記念事業の第一次実施計画の一つとして、総合学術情報センターについて、その中核をなす新中央図書館と国際交流センター・共同利用研究施設の機能の一部を含む施設の建設を具体化することにした。大学はすでにその一部を「新中央図書館計画基本構想書」としてまとめ、総合学術情報センター実施計画委員会の審議を経て、実施計画の方針とした。なお、「国際交流センター・共同利用研究施設の施設の一部」については、整備局を中心にして基本構想を検討したが、その施設が総合学術情報センターを構成する一部であること、およびその機能が新中央図書館の機能と有機的に一体化されることを考慮して、関係諸機関と協議のうえ、別個に基本構想・基本計画書を提出せず、図書館で別途作成した「新中央図書館基本計画書Ⅰ」(案)との調整を計り、全体の施設計画を中心とした「総合学術情報センター基本計画書」としてまとめることとした。このため、本基本計画書においては「国際交流センター・共同利用研究施設の施設の一部」を「研究・会議施設」と略称することとした。なお、国際交流のための諸施設および共同利用研究のための諸施設については、将来的に拡充・発展させる方向で検討する必要がある。 (『早稲田大学広報』昭和六十年二月二十一日号)

 さて、「基本計画書」の具体的な内容について見るならば、今回建設される総合学術情報センターは次の施設によって構成されるものとしている。

新中央図書館閲覧部門(収蔵部門を含む) 研究図書フロアー部門(収蔵部門を含む) 管理事務部門

研究・会議施設会議場・会議室 共同研究室・研究個室

学術情報はこれらの諸施設を循環する。すなわち、新中央図書館は学術情報の収集・整理・提供を業務とし、その学術情報は会議室等で生産・発表され、研究室等で利用・生産されるのである。諸施設間のこのような相互関連性を、施設計画および管理・運用の面からも十分に考慮するのが基本方針とされた。

 管理・運営システムは、新中央図書館がその中核となることになった。「新中央図書館計画基本構想書」では、学内の研究図書館、研究・学習図書館、保存図書館すなわち「現キャンパス総合整備計画の一環として、各キャンパスに設けられる各部局の教員図書室を包含した複数の図書館分館」(同紙 同日号)の機能を新中央図書館が総合的に調整するという分館構想が明らかにされていた。従って、新中央図書館の組織・機構は各グループがある程度の独立性を持ち、各分館との連絡調整およびバック・アップ機能を果し得るようなものでなければならない。また、研究・会議施設の管理・運用も、その基本については関連箇所長を中心とする運営委員会が審議を行うが、業務は図書館がこれに当るものとされた。

 「基本計画書」では施設・設備計画の大綱も示された。予算額六十億円を考慮して、施設の面積は新中央図書館約一万八千平方メートル、研究・会議施設約三千平方メートル、合計約二万一千平方メートルと算出され、これを基礎として各部門の占有スペースが具体的・個別的に割り振られたのである。なお、この施設計画では新中央図書館の建物の正面(利用者入口)は本部キャンパスに面していることとされ、総合学術情報センターの用地問題が既に不可逆的な局面に達していたことが窺われる。

 実施計画委員会では「基本計画書」のイメージをもとに施設計画の検討作業に入り、練り上げられて十番目に出てきた施設計画図案を基本設計図に代るものとして、六十年十二月の百周年総合計画審議会に提示し、了承を得た。この案は冬休み前に全教職員に配付され、翌六十一年一月末まで文書を通じて意見を募った。寄せられた要望書と、一月の評議員会の議決で資金規模が八十億円に増額されたことを配慮して、実施計画委員会は更に施設計画を練り直し、二月に「総合学術情報センター施設計画図(案―二)」を承認した。実際にできあがる同センターは、ほぼこの設計図に等しいものとなる。

 あとは用地問題であるが、これについては六十年十二月時点での総長の説明を掲げておこう。

総合学術情報センターの設置場所についてであるが、その場所は、本部キャンパス周辺の体育施設を利用するというふうになっている。その体育施設に関連ある運動部およびそのOBと折衝している。……この運動施設は、歴史的にみてたいへん意義のあるものであって、それだけに、特にOBの方々の様々な感情がそこにこめられている。この交渉は、当該運動部の部長を中心に行っているわけである。非常に困難をきわめたが、どうやら、最終段階に到達し得たといってよい状況にまでなった。やはり、あるタイムリミットみたいなものがないと、なかなか煮詰まらない側面もある。設置場所が決まらないと、設計も公的には始まらない。また建設の遅れは、それだけ現キャンパスの整備がそれにつれて遅れるというふうに連動してくるわけである。現段階では、何月何日にどういう結論が出るというところまでは煮詰まってはいない。この点については大変申し訳なく思っているが、……OBの中には非常な急進的な反対意見などもあって、そちらのことを絡めて考えると、もう少しご辛抱いただきたいというのが現状である。 (『早稲田大学広報』昭和六十一年五月十二日号)

用地に充てられる安部球場は、明治三十五年に戸塚球場の名で開設されて以来、輝かしい歴史を刻み、忘れ難い思い出を伴って今日に至った。土地の買収費は大学から支払われたとはいえ、開設に尽力したのは初代野球部長安部磯雄であり、昭和二十四年安部の逝去後は安部球場と改名されて野球部と歩みを共にしてきたのである。昭和六年六月に歴史的なテレヴィジョン野球中継が行われたのは、この球場と理工学部との間であった。八年七月に我が国初のナイト・ゲーム設備を完成させたのもこの球場であった。十八年十月、東京六大学野球連盟に解散命令が降りる中、学徒が一斉に陸海軍に入隊したとき、出陣学徒壮行の早慶戦、いわゆる最後の早慶戦が行われたのもこの球場であった。この球場を潰して他の施設を造るとなれば、惜しむ声が挙がるのは寧ろ当然である。六十二年五月、やっとこの問題が解決された直後の時点で西原総長は次のような回想を述べている。

図書館は教室に近いところになければならないので、いろいろ考えた結果、総合学術情報センターは安部球場を使うほかはないという結論に達した。しかし、安部球場は早稲田にとって重要な文化財的な意味を持つ場所で校友のみなさんの思い出も多く、つらい、苦しい練習を重ねた野球部OBたちにとって、球場を明け渡すことは許しがたいことはよく承知していたが、早稲田の学問の発展にはどうしてもそこしか建設する場所がないということで、三年間、野球部およびOB会と折衝を重ね、四月二十一日、協議が整った。 (『早稲田学報』平成二年六月発行 第九七三号 一八頁)

 昭和二年九月、球場に安部の胸像が除幕された時、安部は挨拶の中で「私は或る意味に於ては、このグラウンドに対して非常な愛着心があります。無論学校全体の為めであるならば、たとへこのグラウンドが他に移転するやうなことがあつても、それを以て私は聊かも遺憾とはしない」(同誌 昭和二年十月発行 第三九二号 二〇頁)と述べている。この

第十七図 総合学術情報センター平面図(一・二階)

話はいつしか伝説化し、グラウンドが転用される際には胸像をその地下に埋めよと言ったことになっているほどである。ともかくこの胸像は新たに草された西原総長の由来書を付けて、総合学術情報センターの入口に対面する形で安住の地を得る。六十二年十一月二十二日、安部球場では最後の野球試合「全早慶戦」が行われ、三千人を超える人々が「蛍の光」を歌って球場との別れを惜しんだ(同誌 昭和六十二年十二月発行 第九七八号 一四―一五頁)。その翌十二月、野球部の練習場は東伏見に移転した。

 用地問題の解決を承けて、六十二年五月二十九日に「基本設計書」が理事会で承認され、十二月には新中央図書館の建設が着工される運びとなった。平成二年十月二十七日、井深大記念ホールにおいて総合学術情報センターの落成式が挙行され、創立百周年記念事業の第一次実施計画は一応の完結を見たのであった。

第十八図 総合学術情報センター断面図

 西原春夫総長は落成式の際の挨拶の中で次のように述べている。

QUAE SIT SAPIENTIA DISCE LEG-ENDO(知恵の何たるかを読むことによって学べ)。これは本大学の名誉教授で図書館長をつとめられた古川晴風先生に選んでいただいたカトーの奥ゆかしい言葉である。この言葉を正面玄関の上に掲げた早稲田大学総合学術情報センターがいよいよ完成することとなった。……〔創立百周年記念事業計画委員会の〕審議の過程で、新しい図書館は単に以前のように図書を保管してこれを貸し出すという機能ばかりではなくて、非常に発達してきた情報通信機器を駆使して、学内は言うに及ばず、国内、国外の学術情報を居ながらにして活用できる学術情報センターとしての機能を営むべきであるということが確認された。しかも情報の保管、検索、利用という機能を営む図書館の傍らに研究会議施設を設けて、情報の加工、再生産、公表という機能をも合せ営ませるようにしようという方向に審議が進んだ。そしてこれを総合学術情報センターと名付けることにしようという結論に到達した。総合学術情報センターは正面玄関から見て、左側の大きな三角形が中央図書館を成しており、右側の小さな三角形が研究会議施設となっている。この二つが結合する形になっているところにこのような理想が表れているとご理解いただきたい。

(同誌 平成二年十二月発行 第一〇〇八号 一〇頁)

 この総合学術情報センターが開館し、新中央図書館の一般利用が始まったのは、翌平成三年四月一日である。その偉容は第十七図および第十八図に示す如く、地上四階(一部五階)・地下三階建、建築面積約五千七百平方メートルという国内でも有数の規模を誇る施設で、地下の一・二層は主に研究用図書を収蔵する研究書庫、一階には研究書庫カウンターが設けられているほか、館長室、各事務室などがある。階段を登って図書館入口を入った二・三階は、一般図書、参考図書や雑誌・新聞のフロア、四階はAVルーム、マイクロ資料閲覧室、特別資料閲覧室等になっている。この他にグループ閲覧室、休憩室、ラウンジやAVホール、展示室なども設けられている。

 中央図書館の収蔵図書規模は、将来増設予定の書庫を含めて約四百万冊である。これは旧図書館の蔵書規模約百五十万冊の二倍半以上に相当する。一部の貴重書を除いて利用者が図書を直に手に取って読むことのできる開架式となっている。閲覧席は二・三階の開架書架に隣接した約千四百席に書庫内キャレル等を合せて約千九百席が設けられている。同館の開館を機に、昭和六十年以来開発されてきたWINEネットワーク(Waseda University Information Net-work System)の全面運用が開始され、館内五十余箇所に配置された端末機による図書の検索が可能となった。また、貸出・返却の機械システムも稼働しており、入館と図書の貸出の際には学生証等のIDカードを使用する。

 一方、国際会議場の一階および地下一階部分は、寄贈者の名を冠した井深大記念ホールで、同時通訳ブースをはじめ先端のAV機器を備えた会議場として、学術の国際交流の促進に資するものと期待されている。この他三階には会議室四室、四階には研究個室十九室、共同研究室七室が設けられ、学内外の研究者に利用されている。

 なお、人間科学部の発足と同時に開館した所沢図書館は、新中央図書館を核とする情報ネットワークの中で生れ、分館構想を最初に実現するものとなった。その後理工学図書館および新設の戸山図書館がこれに加わった。更に平成六年四月、二号館(旧図書館)の書庫部分を改修して設けられた高田早苗記念研究図書館が開館する。分館システムは、これらに保存図書館としての機能を持つ本庄分館を加えて全体が完成するのである。

五 募金活動の完結

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 創立百周年記念事業資金の寄附を募る活動が大詰めを迎えた六十年十一月、申込額は既に百二十四億円を超えていたものの、大口の寄附を期待し得る法人募金に対する免税期間の満了が翌年九月末日に迫っていた。大学はそこで個別募金の裾野を更に拡げるべく、タイル募金とスポーツ募金の募集を開始した。タイル募金は、総合学術情報センターの中核をなす中央図書館の外壁を飾るタイル一枚につき五千円の寄附を募るもので、往時の寺社建立に際しての瓦寄進に範を得ている。またスポーツ募金は、新学部スポーツ科学科の充実を図り、これを我が国スポーツ科学のメッカたらしめる趣旨の募金で、これも一口五千円とされた。

 タイル募金の第一号寄附者は、校友でもない中島かじである。彼女のことは第三巻二三六頁に市島謙吉の記述を借りて紹介したが、大正十四年十月に竣工した旧図書館(現二号館)の完成時、玄関にある六本の円柱を白亜に塗った左官が盛装した妻と三人の子供を現場に伴い、仕上げの作業を誇らかに披露するというエピソードがあった。中島かじはその左官武一の未亡人で、彼女が六十一年十月に旧図書館を訪問した折に寄附した十万円が、タイル募金第一号に充てられたのである(矢沢酉二「『タイル募金』三話」『早稲田学報』昭和六十一年一月発行 第九五九号)。新中央図書館の完成を待ち望んでいた彼女は残念ながら平成二年二月に逝去し、十月の落成式には遺影での参列となった。

 募金活動が終結したのはこの十月のことである。寄附申込者の氏名と金額は逐次『早稲田学報』誌上に掲載されてきたが、十月三十一日までの申込分を以て集計された第九十五回最終発表によれば、申込累計は第五十九表の通りである。このうち十月末日現在の入金額は一六四億二六五四万九六八〇円であった。大学は募金に応じた法人・団体および個人の名前を「創立百周年記念事業募金寄附者芳名録」に記載し、総合学術情報センターならびに所沢校舎に保存して芳志を末永く顕彰することとした。

第五十九表 創立百周年記念事業募金額(平成2年10月末日現在)

 このほかに受取利息・配当金が約三十三億六千万円あり、合計収入は約百九十七億九千万円となった。これに対し支出は、人間科学部校舎建設費が約八十四億四千万円、総合学術情報センター建設費が約百九億円、総合学術情報センター機器備品が約二億八千万円、人件費(募金嘱託)が約一億七千万円で、合計は約百九十七億九千万円であった(『早稲田大学年報』平成三年版 一八頁)。

 事業の完成に際して西原総長は、百周年記念事業のあらましを述べ、募金に応じてくれた各位の芳志に謝意を表し、次の言葉を以て結びとする挨拶文を草した。

ここに創立百周年記念事業完成にあたり、募金ならびに事業の内容についてご報告申しあげるとともに、本大学に負託された責任の重大なることを痛感し、二十一世紀に向け、その研究教育を通じて社会にいっそう貢献するよう努力する所存であることを申し添えて、御礼の挨拶とさせていただきます。 (『早稲田学報』平成二年十二月発行 第一〇〇八号 七一頁)

 なお、既述の如く、「早稲田大学会館および大学本部の建設」は百周年記念事業の実施計画からは見送られたが、その後経常事業の一環として新大隈会館が建設された。それまで学生ホール、旧大隈会館、校友会館やテニス・コートがあった大隈庭園隣接地に、平成三年九月から土地信託事業として建設工事を行っていた早稲田会館(仮称)が、六年二月末に竣工した。この一棟建物は大隈会館棟(事務棟および会議室棟)と三十年の信託事業機関を経て大学所有となるコンベンション棟(リーガロイヤルホテル早稲田)との二つの機能を持つ複合用途ビルとなっている(『早稲田大学年報』一九九四年版 一二頁)。大学本部は六年三月に一号館からこの建物に移転し、学校法人早稲田大学の所在地の住居表示は新宿区戸塚町一丁目百四番地となった。かつて本部キャンパスと呼ばれてきた校地が西早稲田キャンパスと改称されたのは、この時のことである。